大正から昭和の時代に入り、本県体育運動の活発化に伴って、各種体育施設の整備や民間スポーツ団体の結成も進み、昭和6年初期には50余のクラブを数えるに至った。そして、これらのクラブ等を統合する団体の結成気運が高まり、昭和6年2月10日、スポーツ団体、教育界、男女青年団、中等学校連合体育会等の関係者が県庁において発会式を行い、「岩手県体育協会」が設立された。 初代会長には久保豊四郎・県知事が就任し、事務所を県庁学部内においた。
昭和12年に発生した日中事変を境に戦争は拡大され、やがて太平洋戦争へと発展したが、日本の運動競技も次第に戦争色が濃厚となり、外来スポーツは圧迫されスポーツ界の暗い時代が続いた。
昭和17年、日本体育協会が国策に添った「大日本体育会」に改組されたのに伴い、本県においても中央の方針にならってその支部となり、「岩手県体育会」に改組された。また、文部大臣を会長とする「大日本学徒体育振興会」が発足したのに伴い、本県にも支部が結成され、県内中学校、高等女学校が加入して競技会等の行事が行われたが、やがて国防競技や戦技訓練へと発展し戦時一色と化していった。
昭和20年8月15日、太平洋戦争の敗戦により終戦を迎えたが、戦後の混乱した社会からいち早く立ち上がったのはスポーツ界である。本県においても昭和21年4月以来、協会の組織化やスポーツ再建策について関係者の協議が重ねられ、設立準備委員会を経て昭和21年10月、新たな「岩手県体育会」(昭和26年「岩手県体育協会」と改称)が誕生した。会長には小泉多三郎盛岡市長が就任した。
岩手県民体育大会は、国民体育大会にならって、広く県民の間にスポーツを振興し、県民の健康増進と体力の向上を図り、県民生活を明るく豊かにしようとする趣旨で、昭和24年9月に第1回大会が開催された。
これは、これまで各競技ごとに行っていた大会を統合して郡市対抗(現在市・町村対抗)の総合優勝制を採用し、国体予選を兼ねて実施するもので、第1回大会は盛岡市を主会場に17競技が行われた。
昭和37年6月23日、オリンピックデーに日本スポーツ少年団本部が発足したことに伴い、本県でも翌年38年3月に体育協会内に県スポーツ少年団本部を設置した。少年団第1号は「普代村堀内スポーツ少年団」。
昭和41年4月、本会事業の急速な拡充と第25回国民体育大会の本県開催が確実視されたことに伴い、その責任体制を一層確立するため組織の法人化が図られ、「財団法人岩手県体育協会」として新発足した。
新会長には、谷村貞治会長が引き続き推挙され、理事長には藤原哲夫理事長が再選された。加盟団体は、競技別35団体、郡市体育協会26団体、学校体育団体2団体の63団体であった。
また、同年6月、岩手国体の内定を目前に控え、選手強化対策事業の拠点施設として本協会トレーニングセンターが建設整備されたことが特筆される。
昭和45年、「誠実・明朗。躍進」のスローガンのもとに、140万県民がたゆまぬ努力を積み重ねて開かれた第25回国民体育大会は、多くの成果と感動を残し、県史に輝かしい1ページを記して大成功のうちに終了した。特に、各競技における本県選手団の活躍はめざましく、男女総合優勝で念願の天皇杯を獲得する偉業を成し遂げた。
平成28年10月1日(土)から10月11日(火)までの11日間、「広げよう感動、伝えよう感謝」のスローガンのもとに、46年ぶりに開催された第71回国民体育大会「2016希望郷いわて国体」は、天皇杯順位第2位という素晴らしい成績を収めるとともに、皇后杯においても第2位とこれまでの国体で最高順位となる成績を残し、大会を終えることができた。また、全国からの選手団や来訪者に対する会場や街での県民のおもてなしでは、東日本大震災津波などに伴う災害からの復興にご支援いただいた全国の皆様に感謝の気持ちを伝えることができ、実りの多い国体となった。
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